忘れられない「思いやり」のエピソード。言葉にしなかった想いを、彼はすくい上げてくれた
人の記憶というものは不思議なもので、人生を左右するような大きな出来事よりも、誰かが示してくれた、ささやかで何気ない「思いやり」の瞬間のほうが、いつまでも色褪せずに心に残り続けることがあります。それは、言葉にされなかったとしても、確かに私たちの心に届き、凍てついた心を温め、明日へ向かう勇気をくれる、小さな光のような記憶です。今回は、私が体験した、言葉を超えた「思いやり」にまつわる、忘れられないエピソードについてお話しさせてください。そして、その経験が、私たちが目指す理容室のあり方と、いかに深く結びついているかをお伝えできればと思います。
ある雨の日の、小さなカフェでのエピソード
それは、まだ私が駆け出しの営業マンだった頃のことです。何ヶ月も心血を注いできた大きな契約を、競合他社に奪われてしまった日の午後でした。降りしきる冷たい雨の中、私は、まるで自分の心を映し出すかのように、どんよりと曇った街を、目的もなくさまよっていました。込み上げてくる悔しさと、自分の無力さへの絶望感で、胸が張り裂けそうでした。
誰にも会いたくない、という気持ちで、私は、路地裏にひっそりと佇む、小さな喫茶店に吸い込まれるように入りました。客は私一人。年配のマスターが、静かにカウンターの奥で作業をしています。私は、テーブル席の隅に座り、ただ時間をつぶすためだけに、コーヒーを一杯だけ注文しました。テーブルの上に、もはや意味のなくなった契約資料を広げ、それを眺めているふりをしながら、ただひたすらに、自分の不甲斐なさを噛み締めていました。
しばらくして、マスターが静かにコーヒーを運んできてくれました。そして、カップをテーブルに置いた後、彼は、何も言わずに、小さな皿に乗った、一切れのチョコレートケーキを、そっと私のコーヒーの横に置いたのです。私は驚いて顔を上げましたが、マスターは、私と目を合わせることもなく、ただ小さく頷くような仕草を見せると、静かにカウンターへと戻っていきました。
その瞬間、私はすべてを理解しました。彼は、店に入ってきた私の疲れ切った表情や、沈んだ雰囲気から、私の心の状態を察してくれたのです。「おつらいでしょう」「元気を出して」といった、ありきたりな励ましの言葉は、その時の私には、かえって重荷だったかもしれません。しかし、その代わりとして差し出された、甘く、濃厚なチョコレートケーキ。その無言の、しかし、あまりにも温かい「思いやり」は、私が必死に保っていた心の壁を、いとも簡単に溶かしてしまいました。一口、また一口とケーキを口に運ぶうちに、こらえていた涙が、熱いコーヒーの湯気と共に、静かに頬を伝っていくのを、止めることができませんでした。
言葉を超えた「思いやり」が、人の心を救う
このエピソードが教えてくれるのは、本当の「思いやり」とは、必ずしも言葉によって示されるものではない、ということです。むしろ、言葉にできない、あるいは、言葉にすることをためらっている相手の心情を、その表情や仕草、雰囲気から深く察し、その人が本当に必要としているであろう、最適な行動を、さりげなく起こすこと。それこそが、思いやりの本質なのではないでしょうか。
もしあの時、マスターが「何か悩み事ですか?」と話しかけてきてくれたとしても、私は、きっと「いえ、何でもありません」と、心を閉ざしてしまっていたでしょう。私の心を救ってくれたのは、彼の言葉ではなく、私の立場を想像し、そっと寄り添ってくれた、彼の深い洞察力と、温かい心遣いだったのです。
私たちの仕事に宿る、同じ種類の「思いやり」
この、言葉にならない想いをすくい上げる「思いやり」の哲学は、私たちプロの理容師が、お客様と向き合う上で、最も大切にしている精神です。お客様の中には、ご自身の理想の髪型を、明確に言葉で表現できる方ばかりがいるわけではありません。また、髪に関する深刻な悩みを抱えていても、それを口に出すことを、ためらっている方もいらっしゃいます。
私たちは、カウンセリングでお客様の言葉に耳を傾けるのはもちろんのこと、その表情や声のトーン、そして、その方が持つ全体の雰囲気から、言葉の裏に隠された、本当の想いや願いを感じ取ることに、全神経を集中させます。「最近、少しお疲れのようだ。頭皮のマッサージを少し長めにして、リラックスしていただこう」「大事なプレゼンを控えていると話していたから、いつも以上に、清潔感と自信が漲るようなスタイルに仕上げよう」。そうした、一人ひとりのお客様の立場に立った、細やかな配慮の積み重ねこそが、私たちの仕事の真価であると信じています。
あなたの「言葉にならない想い」に、私たちは、いつでも、そっと寄り添いたいと願っています。ぜひ一度、思いやりという名のホスピタリティに満ちた空間で、心まで軽くなるような、特別な理容体験をお楽しみください。